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僕の暮らす京丹波町の和知は水に恵まれた山里だ。鮎やアマゴが釣れる清流が流れ、カヌーで川下りも楽しめる。そして冬には雪が積もり川霧がたちモノトーンの水墨画の世界になる。此処での暮らしで僕は、水の見せる様々な姿と表情を知った。

渓流の水は、滝やせせらぎ、よどみと云った地形により表情を変える。渓流を流れる水とコンクリートのプールに溜まった水の表情はちがう。水は更に氷や氷柱、雲や霧と姿を変える。

水と同じ様にガラスもその動きが表情をつくる。吹きガラスで扱う千数百度で熔けたガラスは、水と同じ液体として振舞う。そしてその液体としての性質を利用してガラスは成型される。その成型時のガラスの動きと道具の痕跡がガラスの表情をつくる。つまり人が単純な道具と身体だけで作る吹きガラスでは、人の動きがガラスの姿と表情を作ることになる。従って、吹きガラスのデザインは紙の上で鉛筆を使って出来るものでは無く、また同じ形でも吹く人により、また同じ人でも数を作り込んで行く事でその表情は変わる。

僕は最近、渓流グラスというコップを作っている。滑らかな回転運動が作るラインに気持を乗せていくのが吹きガラスの基本であり醍醐味でもあるが、たまにはイタズラもしたくなる。このコップには、道具を使ってガラスを挟みテクスチャーを着けることで、吹きガラスの基本的動きである回転運動のシンメトリーを壊す意図がある。真円に近く仕上がったコップのくちを敢えて道具でつぶして行く。そのとき僕が持ち込むある意味デタラメなリズムがコップにいろいろな表情をつくる。コップを作るには無駄な動きではあるが、作っていると、まるで渓流で水遊びをしているような気分になる。心が躍る仕事だけど、余り長く続けるととても消耗してしまう。凡人は滝壷の傍には長く暮らせないなと思ったりする。でも毎日プールの側では退屈するなとも思いながら作っている。

人は物を作る時に、その素材に触れ、素材の感触を確かめながら手を加えて行く。そのやりとりのなかで、素材の性質を自分の中に取り込んでゆく。自然素材を使うとき、人は自分の内にある自然を自覚する。作る時だけでなく、物を使う時も同じだ。その自分の内にある自然とは、人が人となる遥か以前、海に浮かぶ生物だった頃に遺伝子に刷り込まれた波や潮の満ち干のリズム。人が生まれてから目にし肌に感じてきた、光や風のもつ“揺らぎ”。それらが人の内に刻み込んだものだ。その内なる自然が外にある自然と共鳴したとき、感動や心地よさが生まれる。それが自然素材にふれた時の感覚だ。木工家が木目を否定せず、料理人が旬を受け入れ大切にする理由もそこにあると思う。

ではガラスはその自然素材だろうか?ガラスも砂や鉱物と言った天然物から作られる。しかし、人はガラスに自然を感じるだろうか?現代人の暮らしの中で、ガラスはプラスチックやアルミ、ステンレス等と同じ様にありふれた素材となっている。しかしその多くは自然を感じさせない。僕は素材としてのガラスに魅力を感じつつ、どこか馴染めない所も感じてしまう。身体や心の奥にある内なる自然と響き合うのでなく、目と頭脳で感じているだけと言ったガラスが多い気がする。その機能とフォルムに納得しても、何故かしら安らぎとか肌に合う心地よさは感じない。
自分でガラスを熔かす窯を持った時、僕が初めに試みたのは、無機質でピュア₋なクリスタルでなく、土臭いガラスを熔かす事だった。無機質でなく有機物の様な、つまり自然を感じるガラスを作ろうと思った。しかし原料の砂や鉱物を選別し、調合を変えても自然素材の様な風合は得られず、ガラスの美しさと矛盾する鈍い印象のガラスが出来ただけだった。それは、原料が坩堝で高温に熔け、全ての物質が均一に混ざり合うことでガラスが透明になるからで、不均一であることはガラスの美しさと矛盾するからだ。

人が坩堝から巻き取る、熔けた状態のガラスには、自然界のリズムや揺らぎは刻み込まれていない。高温の坩堝の中は人が生きている自然界ではなく、敢えて言えば、重力や熱エネルギーの法則だけが働いている世界だ。無機質のガラスに“自然の揺らぎ”を刻み込むのは、そこに息を吹き込む人間なのだ。つまり、素材として無機物であるガラスを使ってコップを作る時、機械で作ればそのまま無機物のコップになり、人が自分の手と息でその内なる自然に従って作ると、自然素材と同じ風合いをもったコップになる。.それは自然と同質のゆらぎをもって心地よく、そこを透過する光りも自然と同じ様に揺らいでいるはずだ。この、“内なる自然に従う”というのは、意図して、頭脳と目でデザインするのでなく、無意識の内に、実際の作業のなかで、身体の動きの中から自然に滲み出るものだ。単純なコップを繰り返し作り続ける事で、僕はそれを見つけた様に思う。

荒川 尚也